日本全国まちめぐり

日本のすべての市に行くのが目標です

神奈川県川崎市:シティハント神奈川東京編

(261/815)

川崎市では工場夜景を見に行くことにしました。川崎市の工場地帯に行くのは半世紀以上前の大学時代、東芝浜川崎工場に見学に行って以来です。

川崎駅近くのホテルにチェックイン後、バスで工場夜景お勧めスポットの一つ市営埠頭まで行きました。途中までは仕事帰りの通勤客でいっぱいでしたが、工場地帯のバス停で降りる頃は乗客は私一人でした。

バス停近くから見えたのがこれ。

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街灯は灯っていますが辺りには人っ子一人いません。カメラを持った人が少しはいるかなと思っていたので予想外でした。通が行くのは別の場所なのかも知れません。こんな所でもし倒れたら明日朝まで誰にも気付かれないなと思いながら岸壁に向かいました。

岸壁から見えた対岸の夜景。

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心細いし寒いしもう帰ろう。帰りは工場が近くに見える道を、二つ駅側のバス停まで歩くことにしました。

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化学プラントと満月のコラボです。

途中でちょっと変わった風景に出会いました。

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大型のクレーン車がずらりと並んで、入ってきた車を出迎えているかのようでした。

最後にバス停近くの橋から今来た方向を振り返って。

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明日は朝早く羽田です。

神奈川県横須賀市:シティハント神奈川東京編

(260/815)

横須賀市では記念艦三笠を見に行くことにしました。三笠は日露戦争日本海海戦で日本艦隊の旗艦だった戦艦です。1902年にイギリスで建造されました。歴史上の大きな出来事で中心的な役割を担った船で、実物が残っているものはほとんどありません。

横須賀中央駅から15分ほど歩くと三笠が係留されている(実際は海底に固定されているらしい)岸壁に着きました。

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岸壁は公園になっていて東郷平八郎日露戦争時の連合艦隊司令長官)の像が立っています。

近くで見るとこんな感じ。左側が前です。

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船内はかなり自由に見て回ることが出来ます。ここが日本海海戦の時に東郷平八郎が立っていたブリッジです。

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床にはここに誰が立っていたというプレートが貼ってありました。

ブリッジから見た艦の前方。

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艦の先端からブリッジ方向を見たもの。

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船室部は展示スペースになっていて、連合艦隊司令長官の部屋も再現されていました。

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見終わって何か違和感が残りました。凄い歴史を背負っているわりには扱いが軽いという印象です。重要文化財にもなっていないのです。

太平洋戦争後の荒廃により、当初の状態で残っている部分は少ないということのようですが、現存する世界最古の鋼鉄戦艦でもあり、重要文化財くらいにはしてもよいのではないかと思いました。

 

 

神奈川県三浦市:シティハント神奈川東京編

(259/815)

どうしても行きたかった海外ツアーが羽田空港から朝出発で、近くで前泊が必要になったのでついでに近くの市や区をいくつか回りました。まずは三浦市

以前に房総半島を回ったとき海岸から三浦半島が見えていたので、今度は三浦半島から房総半島をと三浦海岸に行きました。

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天気がもう一つだったので房総半島はぼんやりです。左側にくっきり見えているのはこちら側の三浦半島の一部です。それにしても東京湾にこんな綺麗な広い砂浜があるのですね。

10月でしたから泳いでいる人はいませんでしたが、海上ではウインドサーフィンをしている人が。

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風が強かったので結構スピードが出ていました。海岸には白波が立っていました。

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三浦海岸駅に戻る途中に大きなクスノキがありました。

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「鎌倉と三浦半島の古木名木50選」の一本らしいです。近くには海防陣屋跡の碑が。

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江戸時代末期に異国船襲来に備え、三浦半島の守りの本拠としたのがここだったようです。担当は彦根藩長州藩熊本藩と替わり、長州藩の頃は桂小五郎伊藤俊輔も勤務していたそうです。

こういう思いがけない歴史に触れるのもシティハントの旅の楽しみです。

 

 

愛知県田原市:シティハント西静岡東三河編

(257/815)

田原市では江戸時代、ここ田原藩藩士であった渡辺崋山をネタにすることにしました。

私にとって渡辺崋山は画家のイメージが強かったのですが、行くにあたって調べると実は多才な人物でした。画家であり蘭学者であり優秀な行政官でもありました。

画家としては西洋画の技法を取り入れ、写実的な肖像画に優れた業績を残し、国宝の「鷹見泉石像」などの作品を残しました。子供の頃から絵が得意で絵を売って貧しかった家計を助けていたようです。

蘭学者としては高野長英らと「尚歯会」を作り、西洋事情に関しては当時の第一人者の一人でした。しかしこれがもとで「蛮社の獄」に連座し、幕府から国元での蟄居(ちっきょ)を命じられました。

行政官としては38歳で田原藩の家老となり(本人は画業に専念したかったらしい)、田原藩の財政立て直しや天保の大飢饉への対応に手腕を発揮しました。しかし「蛮社の獄」て蟄居中、生活の窮状と藩への迷惑を顧み、自刃して49歳の生涯を終えました。 

原城跡は田原駅から10分ほどの所にあります。堀や石垣、再建された門があります。

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門を入るとすぐに田原市博物館があり、ここに渡辺崋山関連の資料も展示されています。

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鷹見泉石像の複製。原本(国宝)は国立博物館にあります。

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蛮社の獄の時の様子を自分で描いたもの。これは原本で重要文化財に指定されています。

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自刃の時の脇差と遺書。

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これについては言葉がありません。

田原市博物館からの帰りに田原市報民倉の前を通りました。

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城っぽく造られていますが、巨大地震などの災害に備えるための資機材が保管されている市の倉庫です。

「報民倉」という名称の元は、家老だった渡辺崋山の指導により、来たるべき飢饉に備え穀類等を備蓄するために造られた倉庫にあります。これがあったことで天保の大飢饉でも田原藩は一人の餓死者も出さなかったそうです。

 

愛知県新城市:シティハント西静岡東三河編

(256/815)

新城市はシティハントの旅を始めるまで名前も知らない市でした。でも調べると行き先は簡単に決まりました。新城市には設楽ヶ原古戦場があったのです。

設楽ヶ原古戦場は戦国時代に長篠の戦いで、最強と謳われていた武田騎馬軍団が織田徳川連合軍の鉄砲を用いた戦法に敗れ、歴史を転回させた場所です。最寄りの駅から1.4km、ちょっと遠いけど許容範囲です。復元された馬防柵もあるようですし、歴史好きとしては見逃せません。

三河東郷駅から緩い上り坂を歩くこと20分、設楽ヶ原の入り口に着きました。

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左側の山に織田徳川連合軍が陣取り、右側から武田軍が攻めたそうです。

左側の山の麓まで行くと復元された馬防柵が見えてきました。

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柵は場所によっては二重三重になっていたようです。

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ほとんどの所は柵が建っているだけでしたが、一部に古文献と時代考証によって正確に構造を再現した部分がありました。

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柵の前面には堀、柵の裏側には鉄砲隊が身を隠すための土塁があリます。柵はちょっとチャチな感じもしましたが、馬を立ち止まらせればよいのですからこれで良かったのでしょうね。

土塁の裏から武田軍が攻めてきた方向を見たのがこれです。

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鉄砲隊の隊士の気分になって勇猛とどろく武田騎馬軍団が近づいて来る様を想像すると、鉄砲の威力をまだ信じきれなかったであろう隊士はやはり怖かったでしょうね。

織田徳川連合軍はここから攻めて来る武田騎馬軍団を狙い撃ったのでした。柵の前は惨憺たる状況だったでしょうね。

多くの武田武者が倒れた古戦場には真新しい地蔵が建っていました。

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愛知県豊川市:シティハント東静岡東三河編

(255/815)

豊川市ではどこに行く?豊川稲荷しか浮かんできませんでした。調べてもそれ以上に行きたくなる所も見つかりません。そうしよう。

豊川稲荷は日本三大稲荷の一つとされていますが、三大◯◯がどこであるかは諸説あるのが普通です。稲荷の場合は京都伏見稲荷だけが当確で、あとは豊川、最上(岡山)、祐徳(佐賀)、笠間(茨木)のどれかが入るようです。

豊川駅から歩くとまず出会うのが豊川稲荷の総門です。

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入ると正面に山門があります。

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山門の右には鐘楼。

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総門をくぐって少し左には大きな鳥居が。

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鳥居の奥には本殿があります。

何か変・・・。私の認識では稲荷は神社だったからです。ところが豊川稲荷は円福山妙厳寺という曹洞宗のお寺なのです。調べると先に挙げた三大稲荷の候補五つのうち、伏見稲荷、祐徳稲荷、笠間稲荷は神社ですが、豊川稲荷最上稲荷はお寺でした。

本殿まで行くとどう見てもお寺の造りです。

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てもキツネがいます。稲荷というのは訳が分からない神様?です。

更に奥に行くと木々の間に祠がありました。

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奥の院と呼ばれるかつての稲荷本殿です。そうか元はお寺を守る寺院鎮守だったのか。これだったら京都の大きいお寺にもある・・と正しいかどうかは分からないけどとりあえず納得。

奥の院の横にはまた鳥居がありました。

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そこから奥に進むとそこはキツネの世界でした。

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静岡県湖西市:シティハント西静岡東三河編

(254/815)

湖西市は名前の通り浜名湖の西にある市です。

江戸時代には浜名湖の北側と南側に街道が通りそれぞれに関所が置かれましたが、メインの南側の東海道に置かれた関所が湖西市新居関所です。明治2年に関所が廃止された後も小学校や旧新居町役場として利用され、主要街道の関所建物としては全国でただ一つ現存して国の特別史跡になっています。

これが関所の中心をなす面番所で、小学校や役場として使われた時代に変更された部分を復元して保存されています。

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復元された関所の入り口の門です。

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これは浜名湖側の船着場です。古絵図や発掘調査に基づき復元されたものです。

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番所の正面がこれ。

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旅人はここに土下座してして取り調べを受けたのでしょうか?それとも通行手形を見せて通過するだけ?

番所を中から見るとこうなっています。

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人形の役人が並んでいました。

新居関所跡は東海道線新居駅の西側にありますが、この駅のすぐ北側にはボートレース浜名湖があります。ギャンブル依存症の人を止めるために今はこちらの方に関所が要るのでは?